わかってほしいから話すのか、話すからわかってほしくなるのか
Do we speak because we want to be understood, or do we want to be understood because we speak?
【問の提示】声を出す前と後で、何かが変わる
誰かに話したい、という感覚がある。
それは必ずしも「解決策を求めている」ということではない。アドバイスが欲しいわけでも、慰めてほしいわけでもない。ただ、話したい。声にしたい。誰かに聞いてほしい。
なぜ人は話すのか。
当然のように思えるが、よく考えると不思議だ。言葉にする前から、気持ちは自分の中にある。モヤモヤも、怒りも、悲しみも、どれも言葉にする前からすでに存在している。だとすれば、話すという行為は何のためにあるのか。
「わかってほしいから話す」という答えが、すぐに浮かぶ。理解されたい、共感されたい、自分という存在を認識してほしい。その欲求が先にあって、声はその手段として生まれる。この流れは自然に見える。
しかし逆の問いも立てられる。
話し始めてから、初めてわかってほしいと思い始めた、という経験はないだろうか。言葉にするつもりもなく、なんとなく話し出して、気づいたら止まらなくなっていた。そして話し終えたあと、ああ、自分はこんなにわかってほしかったのか、と初めて気づいた。
話すことが、わかってほしいという欲求を生み出した。
どちらが先なのか。欲求が言葉を引き出すのか、言葉が欲求を発見させるのか。
この問いは「なぜ人は話すのか」という単純な問いではなく、「欲求は言語化の前に存在するのか」という、人間の内面の構造そのものへの問いだ。
【二項の考察】わかってほしい欲求が先か、話す行為が先か
まず「わかってほしいから話す」という立場から考えてみよう。
この立場の核心は、言語化には目的がある、という考え方だ。人は何かを伝えたいという内的な欲求を持ち、その欲求を満たすために言葉という道具を使う。言語は手段であり、その手前に動機がある。
心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求を階層として整理した。生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、そして承認の欲求。「わかってほしい」という感覚は、この承認の欲求に深く根ざしている。自分という存在が、他者によって認識され、理解されることへの根源的な渇望だ。その渇望が先にあって、言葉はその渇望が外に向かって伸ばした手だという見方だ。
哲学者のマルティン・ブーバーは、人間の存在様式を「我と汝」という関係性で描いた。人は孤立した個体として存在するのではなく、他者との関係の中で初めて「私」になる。その関係を成立させるのが、対話だ。だとすれば、話すという行為の根底には、「汝」に向かおうとする欲求が最初からある。わかってほしいという衝動は、話す前から人間の構造の中に埋め込まれている、という読み方ができる。
一方「話すからわかってほしくなる」という立場は、この順序を逆転させる。
言語行為論の哲学者J・L・オースティンは、言葉は単なる情報の伝達手段ではなく、それ自体が行為だと論じた。言葉は何かを述べるだけでなく、言うことによって何かを変える力を持つ。「話す」という行為は、話した内容を外に出すだけでなく、話した本人の内側にも何かを引き起こす。
この視点から見ると、話すという行為が自分自身の欲求を「発見」させる可能性が生まれる。
心理療法の現場でも、これに近い現象は繰り返し観察されている。クライアントは「何が問題かよくわからない」という状態でセラピーを始め、言葉にしていくうちに自分が何を求めているかを発見することが多い。話すことが、欲求を掘り起こす道具になっている。わかってほしいという感覚は、話す前から存在していたのではなく、話すという行為が地表に呼び出したものかもしれない。
発達心理学者のレフ・ヴィゴツキーは、思考と言語の関係について深く考察した。内的な思考と外に向かう言語は、単純な一方通行の関係ではない。言葉にすることが、思考そのものを変え、深め、発展させる。「話す」という行為は、すでにある思考を出力するのではなく、思考そのものを作り出す側面を持っている。
だとすれば、わかってほしいという欲求もまた、言語化の過程で形成される可能性がある。
ここで二つの立場がぶつかる問いが生まれる。
わかってほしいから話すという立場では、欲求が先に存在する。しかしその欲求は、なぜ生まれるのか。孤独があるから生まれるのか、自己肯定感の揺らぎから生まれるのか。その欲求の源を辿っていくと、言語化以前の、言葉にならない何かへとたどり着く。その「何か」は、どうすれば満たされるのか。
話すからわかってほしくなるという立場では、言葉が欲求を生む。しかし言葉にしなければその欲求は生まれなかったのか。話さない人は、わかってほしくないのか。言葉を持たない人は、承認の欲求を持たないのか。そんなことはないはずだ。言語化されないまま、欲求は静かにそこにある。
この往復が示すのは、「わかってほしい」という欲求と「話す」という行為は、どちらが先という問題ではなく、互いを呼び起こしながら深まっていく関係だということだ。
【本質について】「わかってほしい」という欲求の正体へ
ここで問いを一段深める必要がある。「わかってほしい」とは、そもそも何を求めているのか。
「わかってもらう」という体験には、少なくとも三つの層がある。
一つ目は、情報の共有だ。自分が経験したこと、感じたことを、他者が認識すること。「そういうことがあったんだね」と言われることで満たされる層だ。これは表層の「わかってもらう」で、比較的言葉で届けやすい。
二つ目は、感情の共鳴だ。自分が感じた痛みや喜びを、他者が同じように感じてくれること。「それは辛かったね」と言われるだけでなく、その言葉の奥に本当の共鳴があること。これは情報の共有より深く、言葉だけでは届きにくい。
三つ目は、存在の承認だ。何かを伝えたからではなく、自分という存在そのものが、ここにいていいと感じられること。言葉の内容ではなく、そこにいる誰かの「あなたがここにいる」という確認によって満たされる層だ。
人が「わかってほしい」と感じるとき、求めているのはこの三つのうちのどれか、あるいは複数だ。しかし多くの場合、自分がどの層を求めているかを、話す前には把握できていない。
だから話す。
言葉にしていくうちに、自分が何を求めていたかが見えてくる。情報の共有で満たされると思っていたのに、感情の共鳴を求めていたと気づくことがある。感情の共鳴を求めていたのに、本当は存在の承認が必要だったと、話し終えてから気づくことがある。
「わかってほしい」という欲求は、一枚の板ではなく、話す過程で層が剥がれていくものかもしれない。
話すことは、他者に向かう行為であるとともに、自分の内側を掘る行為でもある。
【私見】言葉にするまで、何を求めているかわからなかった
僕は長い間、「話すのが苦手」だと思っていた。
気持ちを言葉にするのに時間がかかる。話しながら、自分が何を言いたいのかわからなくなる。感情が先に動いて、言葉が追いつかない。そういう感覚がずっとあった。
だから黙っていることが多かった。
でも、あるとき気づいた。黙っていると、自分が何を感じているかも、次第にわからなくなっていく。言葉にしないまま押し込めた感情は、形を失って、ただ重たいものとして内側に溜まっていく。何が重たいのかすらわからないまま、ただ重たい。
言葉にして初めて、それが悲しみだったとわかる。怒りだったとわかる。あるいは、ずっとわかってほしかったのだとわかる。
双極性障害の波の中で、上がっているときは言葉が次々と出てくる。アイデアも言葉も、溢れるように出てくる。しかし下がっているときは、言葉が出てこない。感じていることはあるはずなのに、それに名前をつけることができない。
言葉が出てこないとき、わかってほしいという欲求があるかどうかもわからなくなる。ある、とは思う。しかし、その欲求にアクセスする回路が、一時的に閉じている感覚だ。
言葉と欲求は、思っていたより深いところで繋がっている。
「わかってほしいから話す」という順序が成り立つためには、自分の欲求にアクセスできている必要がある。それができないとき、言葉は出てこない。出てこないと、欲求にも気づけない。欲求に気づけないと、誰かに向かうことができない。
言葉は、自分と他者を繋ぐ橋であるとともに、自分の内側への橋でもある。
今、こうして書きながら、思う。書くことで、自分が何を感じているかがわかる。そして書いたものを誰かが読んでくれることで、わかってほしかったのだと気づく。
わかってほしいから書くのではなく、書くからわかってほしいとわかる。
少なくとも、僕にとってはそういう順序だ。
【あなたの番】あなたが話す理由は、話す前から存在しているか
ここまで読んで、あなた自身の「話す」という行為を振り返ってほしい。
あなたが誰かに何かを話すとき、その前にすでに「わかってほしい」という感覚があるだろうか。それとも、話し始めてから、自分がわかってほしかったのだと気づくことが多いだろうか。
どちらでも、正しい。どちらも、人間の自然な在り方だ。
ただ、一つだけ気にしてほしいことがある。
「どうせわかってもらえない」と感じて、話すことをやめてしまった経験はないだろうか。わかってもらえないとわかっているから、最初から話さない。話さないから、自分が何を求めているかもわからなくなっていく。その循環の中で、少しずつ、誰かに向かうことが億劫になっていく。
それは、言葉にする前に諦めてしまっている状態かもしれない。
わかってもらえるかどうかより、話してみることの方が先かもしれない。話してみてから、自分が何を求めていたかがわかる。わかってから、どう伝えるかを考える。
完全にわかってもらうことは、誰にもできない。他者は他者であり、自分は自分だ。しかし、完全でなくても、一部は届く。一部でも届いたとき、人は少し、軽くなる。
一つだけ、問いを手渡す。
あなたが今、誰かに話せていないことがあるとしたら。それは「わかってもらえない」という予測が、言葉より先に来ているからではないか。


ヴィゴツキー🩷言語学で必ず通る大先生!